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特攻直前、敗戦覚悟し「死んだら靖国ではなく天国へ」
45年4月。良司さんが最後の帰省をした。夕食の時、良司さんは急にぽつりと言った。「この戦争は負けるよ」。登志江さんは「驚きました。日本は絶対勝つと思っていました。最後は神風が吹くと。そう教育されていましたから。びっくりして、雨戸を開けて外をみました。憲兵に聞かれたら大変だと思って。誰かいないかとのぞいたのを記憶しています」。憲兵は国民の反戦思想などを取り締まる役目だった。実際、聞かれたら何をされたか分からない。
良司さんは、さらに2人だけの場でつぶやいた。「死んでも靖国神社には行かないからね。天国へ行くから」
1869年、明治天皇によって「国家のために一命を捧げられたこれらの人々の名を後世に伝え、その御霊を慰めるため」(靖国神社ホームページ)、招魂社が東京九段に創建され、1879年に靖国神社と社号が改められた。戦死者は「祖国に殉じた尊い神霊(みたま)」として靖国神社にまつられた。死を覚悟した兵士たちが「靖国で会おう」と約束することもあった。
戦死者の多くは遺体も遺骨も遺族のもとには戻らなかった。遺族たちは、魂がまつられている靖国に参拝することで心の安らぎを求めた。しかし、良司さんはそこに行くことを拒んだのだ。
帰省から家を出る時、見送る家族に向かって良司さんは叫んだ。「さようなら、と3回。特攻隊のことは知りませんでしたが、母は『もう帰ってこないのでは……』と言った気がします」
1945年5月11日。良司さんは鹿児島・知覧の特攻基地から、爆弾を積んだ戦闘機「飛燕」で沖縄方面に飛び立ち、戦死した。22歳。「5月11日は今でもすごく嫌な日ですよ。特攻は本当にひどい。死刑みたいなものですものね……。(特攻を始めた人が)どんな気持ちだったのか聞いてみたい」。登志江さんはそう話す。未来ある若者たちが犠牲に 「特攻を美談にしないで」
良司さんは出撃前夜、陸軍報道班員として知覧にいた高木俊朗の求めに応じ、原稿用紙7枚に「所感」を書き残した。
「権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れることは明白な事実です」とし、さらに日本の同盟国だったドイツ、イタリアがすでに敗北している事実を引き、「権力主義国家は土台石の壊れた建築物の如(ごと)く次から次へと滅亡しつつあります」とした。「日本必敗」を予言しながら「心中満足で一杯です」と結び特攻に飛び立つこの遺書は、これからも読み継がれていくだろう。
特攻で命を落とした兵士達は「英霊」とたたえられることがある。「若者たちが、家族や国のために命をささげた」などといった美談にされるむきもある。登志江さんは「そういうふうになってほしくないですね」と言う。他方、「新しい戦争」が現実味を増し、政府は備えを進めている。
「戦争は平和な一家をめちゃめちゃにしてしまう。そう考えたら戦争なんてできるわけがない。兄たちはそれぞれにいろんなしたいことがたくさんあったのに、死んでしまいました。若い人がそういうことがないように、精いっぱい人生を楽しめる社会であってほしいと思います」全文はソースで
https://news.yahoo.co.jp/articles/b08e5dde57ae50e60e75be686cc26ca1a8d66a14
しんぶん赤旗
なにげなく顔を合わせた末の妹・登志江さんに「死んでも靖国へは行かないよ。天国に行っているからね」と語ったそうです。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2010-05-17/2010051701_06_0.html
昔から左翼活動してるみたい
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